【宗祖 水元照子先生について】

水元流神道を創立された、宗祖 水元照子先生についてのご紹介です。

水元照子先生は、全身全霊を傾けられ、神の道の修行をきわめられました。

水元照子先生先生のお姿は、霊感の高い人が見れば、金色の後光がさし、まぶしくて、目があけられないほどだったといわれております。

水元照子先生プロフィール

  • 明治42年9月25日 鹿児島県日置郡金峰町新山にて、父井上次郎助、母タカの三女としてご誕生。
  • 幼少の頃より、人のため労を惜しまず尽力される。
  • 27歳の時、夫の病を治すことがきっかけで信仰の道に入られる。
  • 33歳の時、臨死を体験する。

(昭和16年12月25日の夕方4時過ぎから5~6時間の間とのこと。)

その時、死後の世界を一部見学し、神の指示にて顕界(この世、現世)に戻され、神霊法を説き、道の教え、運命の鑑定をする。

  • 天照皇大神様を祭神とし、鹿児島にて円道会を発足。
  • 神の指示にて、昭和32年5月18日祭天妙法天光神様(水元照子先生の守護神様)のお姿を撮影。神の存在を証明される。
  • 神の指示にて、昭和32年9月14日水元照子先生の魂のお姿を撮影。
    霊魂の存在を証明される。
  • 数々の不思議と奇跡の霊媒、霊視鑑定、因縁清め、祭祀、供養等で、多くの方々を救われる。
  • 平成5年12月24日 逝去 

 臨死体験をされた水元照子先生

日置郡金峰町阿多の実家で(現 南さつま市)毎日、毎日、村の人が水元照子先生に救いを求めて、日参されました。

昭和16年12月25日、朝から引き続き、村の人たちがお願いに詰めかけて、朝から食事をとる暇もなく午後4時半ごろ、後5、6人残っているときに、バッタリ倒れられて、そのまま意識もなくなり、亡くなってしまわれたのです。
 
 《これは水元照子先生が臨死体験をされた後に、お話しされた内容です。》
 
何艘も船が迎えに来てどれも気に入らず、13艘目にやっとこれで行くと言われた時、三途の川とかいうのだろうと思われるところの手前で、
 
「この川を渡ってはいけない。あなたはまだしなければならないことが残っている。さぁ、これを飲んで早々に立ち戻られよ」
 
といわれ、葉のようなものに、露がたまったキラキラ光った玉の露とでも言おうか、そのようなものを飲まされたそうです。
 
ちょうどその時のことと思われます。

酒好きの親類のおばが、お酒を自分が一口飲んで、その後に「死に水だ」と言って、水元照子先生の口にお酒を入れたら、それを「飲んだ!」と言って仰天した時、息を吹き返されたそうです。
 
水元照子先生の目に、周りの人たちが目を泣き腫らしていて、生き返った喜びで大騒ぎしている様子が映ったと言っておられました。


水元照子先生からのメッセージ

真の幸福は、心から生まれます。

心の厚みは、富士山に似かよう姿に仕立てるのです。

幅が広ければ、高さも高い。

人の心のお粗末は、目には見えねど苦を積む姿。

人と生まれし尊き身をば、業悪に染めるは情けない。

心の奥を掃除して心の良さを作るのです。

嘘と真(誠)は開きが大きい。

真(誠)は、幸せの布を着る。

嘘は何を着るか。

重い罪を着る。

正直者は馬鹿を見るという言葉にのる人もいる。

正直の頭に神宿るを知らぬからである。

どちらにしても自由であろうが、優れた力は尊きもの。

自分の値打ちは、自分でわかるもの。

人それぞれに身の幅が違います。

人の一生は楽しいようであっても、何時どんな目に遭うかもわからない。

人間、世暮らしの中に 一つやかましいものがあります。

それは、鏡です。

自分の外見を映し、悪しきところを直します。

自分の心を鏡に映して、引け目のないようになさるお方はどんなお方でしょう。

心の鏡とは良心です。

自分と他人を比べてみてもどうすることもできないから、

おまけがつかないようにしていくものです。

おまけとは不運です。

しかたなき自分になるよりも、徳を積み、値打ちの重みを楽しめよ。

不思議な力は目に見えず。

精神鍛え、開墾してこそ、値打ちの厚さがついてくる。

事物に感謝し人立てりゃ、できた心が迎えます。

真の幸福生み出せば、味はますます味わえる。

世間の人を気に病むな。

人と生まれて人たる道を、つとむることこそ足場あり。

難儀を難儀と思うなよ。できた心は値打ちもの。

損と徳の開きは心の値打ちで決まるもの。

ここは、神霊法を学ぶところです。天直々の教えをいただけるところです。

ありがたい温かい思いやりのある天光神様(水元照子先生の守護神様)は、

水元流神道の大主様です。

朝な夕なにただ手を合わすのは自分の気持ちがなごむようにしているだけで、

背中の重さに気づきません。

気づかずに苦労難儀とちなむより、我が心に明かりをともすことが大切です。

神霊法を犯さず、道を立てること。それが力となります。

信仰というものはいっぺんに晴れ着を買うようなものでも、

歌や囃子で為すようなものでもありません。

信仰とは心の廻りを掃除して、天より照らされるよう自分を浄めることです。

不思議というものは数多い。

その中の一つである「生かされている」ということに気づくことです。

この世は、借り物。心だけが自分のもの。

人間は、この世に使命を受けて大自然の恩恵を受けて生かされております。

この世に滞在している間の実績がすべて天に上がります。

天界に行くか、苦界に行くかは、その人の実績次第です。

それにも気づかず、自分の我のはびこり角をだし、垢を着、

その性の手柄は、苦しみを受け、これが不運の旗揚げです。

我が行いの怠りは棚に上げ、恨みつらみを当てつける。

我知らず知らず作りし罪のはびこりは、縦にも横にも許されるはずがありません。

天界にいったとき、肩身の狭い思いをしないよう、どこまでも努力していきなさい。

道を学んでゆくうちに運勢開けて味の良さ。

身の喜ばるる隠れた力がついてきて、未熟であった自分をば見返す力ができて頼もしい。

大きい器にはたくさん水が入ります。小さい器にはそれだけのこと。

それと同じく、心の浅さ、深さに合わせて、その人によって御加護が違います。

ですから決して愚痴は通りません。

精進高く今までの不自然を取り戻す心の立て方にて、お慈悲はいただかれるのです。

明日を楽しむ教えゆえ、光求めて進みなさい。