【神霊写真の実写】

水元流神道宗祖 水元照子先生は高い神格の御方で、昭和32年5月18日、大神様の御指示に基づき、ご自身の守護神様(天光神様)のお姿と、同年9月14日、ご自身の魂(生霊 せいれい)のお姿を、普通の写真機で写されました。

天光神様の撮影

水元照子先生は、「昭和32年5月18日 午後8時頃、御神前にて水元照子の守護神(その名は天光神【てんこうしん】)の姿を写真に写せ」との御神詞を数日前に受けられました。

当日午後8時頃、水元照子先生は写真機の位置、焦点を指示され、準備完了しますと室内の明かりを全部消すように命ぜられました。

やがて待つこと30分。
静まりかえった暗闇の中で、水元照子先生の鋭い気合いがかかり、同時にシャッターを切りました。

現像焼き付けは大口市(現:伊佐市)の写真館に依頼しました。
出来上がった写真は印画紙いっぱい無数の後光がさし、その中心に天光神様の神々しい御尊顔を拝しました。
暗闇の中で幾十度も吐かれたあの息吹は後光の息吹とわかりました。
初めて体験する神霊写真の実写でした。

御生霊(ごせいれい)様の撮影

次は、昭和32年9月12日、昼のことです。
水元照子先生に御神霊がかかり、「お茶碗いっぱいの粘土一個を練り丸め、その中に針先を外に向けて針13本を植えたものを作りなさい。9月14日午後6時に私の生霊(せいれい)の姿を写真に写すのです。」と申されます。

「場所はどこですか?」とお聞きしますと、「城山だ。」と申されました。

「城山は昔は誰でも簡単には登れなかったが、今日では登山道路ができて誰でも楽に登ることができるようになった。
その道路を作った記念碑があり、そこまで行けばわかります。

水元も同様に永年の修行のあげく天の道(神霊法)を極め、今ではどなたでも信仰高く上られるように道を開いてきた。水元の真剣(針剣)、信仰の念の度合い(粘土)を天に届けるのだ。
粘土を火熱で焼けば焼くほど固くなるのと同じく、わしの信念が絶対にくじけぬ証しを天に届け、わしの生霊の姿を写真に写すのだ。」

と申されました。その石碑が何処にあるのか、水元照子先生も御存じないのです。
同行した者も知りません。

9月14日午後5時、同行者6人と共にとりあえず薩摩義士の墓のところまでご案内申し上げました。「ここですか?」と尋ねますと先生は墓の周りを一回りされて、「いやここではありません。ここは墓石が重ねて立ててあるだけで、ただの一人も霊魂はこもっていません。」と申され、水元照子先生は初めて通る畑の草道をお一人で先に進まれ皆も後に続きました。
やがて登山道路に出て、左の方にしばらく歩きますと「ああ、ここだ。」と申されました。

道路の右奥に城山登山道路の開さく記念碑が立っていました。
水元照子先生は石碑の前に立たれ、当時(昭和32年)の鹿児島大学医学部の方に向かわれて、「あのこんもりした所に案内しなさい。」と、申されます。
そこは、医学部正門のある所です。

そこに旧七高創立25周年記念の丸い石造りの天文台の建物が残っておりました。
今日ではその周辺の模様がだいぶ変わっておりますが、当時はテニス子コートの周囲に金網が張られ、天文台の入り口に鍵のかかった小さな金網の門がありました。

ここが御神詞の天文の入り口の意義になったわけです。
そこに着きますと間もなく、水元照子先生に御神霊がかかり、「写真機の位置はここ」と示されました。

小門の扉には上下二か所、錠がかかっており、その下が五寸位あいております。
そこに御指示のあった白紙に包んだ粘土の玉を置かれて、写真機の所に引き返してこられました。

次に、写真機のそばで天に向かって大きな声で、「水間喜八郎(みずま きはちろう)殿! 水間喜八郎殿!!」と数回呼ばわれ、「わしは水元照子なるぞ、天に届けるものがあるから案内されよ」と叫ばれました。

間もなく、鋭い気合いを出されたその瞬間、三宅は写真機のシャッターを押しました。
水間喜八郎というお方は、水元照子先生の母方の御先祖様で島津藩に仕えた天文学者であられた方で、霊界で高く昇天されておられるため、お呼びすることができたのだそうです。

後日、写真館で現像焼き付けしてみますと、なんと不思議なことでしょう。
水元照子先生の御生霊様は、当日着て行かれた服装そのままの姿ではっきりと写り、白紙の上に置かれた粘土の玉も生霊体の中に写っており、しかも花冠をかぶった天の使者と思われる姫君お二人の姿も写っているのには驚きました。

よほど神格化されないと自分の守護神や生霊の姿を写真に写すことはできません。
このように自分の守護神、生霊の姿を天にも大衆にも証明されて、人様の運命の裁きをなさる水元照子先生です。