【挨拶、礼儀】
挨拶とは
挨拶とは、日常の人間関係を円滑に運ぶために、あるいは、人間関係を疎遠にするために交わしたり、行われたりします。
「おはようございます」、「こんにちは」など、ある程度、形式としては決まっており、一つの礼儀として行う言葉や動作であり、また式典などで儀礼的に述べられる言葉でもあります。
挨拶を大切に思わない人は、おそらくいないでしょう。
少なくとも、「心」を大切にしている人は、まず、「挨拶」を大切にします。
挨拶がきちんとできる人は好感を持たれたり、信頼されやすくなります。
しかし、挨拶は、すべての人にペコペコ頭を下げれすればいいというわけではありません。
また、本人は挨拶したつもりでも、声が小さかったり、動きが挨拶しているように見えなかったりで、相手が、挨拶したとわからなかったら、せっかくの挨拶が伝わらず、とても残念なことになります。
「あの人、挨拶もしないでっ!」と、相手が怒り、その行き違いからその後の人間関係に支障がでるかもしれません。
だからといって、いつもいつも、元気に明るくすればいいのでもありません。
たとえば、赤ちゃんが眠っているのを起こすような挨拶や、静かな図書館内で、大声でかわす挨拶は、かえって迷惑です。
そのときは、小声であるいは、無言でも目くばせするだけの挨拶でもいいのです。
TPOに合わせ、そこにどんな「心」を込めて挨拶をするか、が大切なのです。
義務やいやいやながらする挨拶。
心からの温かさや優しさ・思いやり、そして敬意が伝わる挨拶。
挨拶は、ある程度、形式がきまっていますが、そこに込められた「心」が大切です。
礼儀とは
礼儀とは、人間関係や社会生活の秩序を維持するために、人が守るべき行動様式のことです。
特に、敬意を表す作法のことです。
たとえば、
- 「礼儀にかなう」
- 「礼儀正しい人」
- 「親しき仲にも礼儀あり」
- 「礼儀作法」
などと言います。
また、「礼儀」に似た言葉に「作法」があります。
- 「礼儀を知らない」
- 「作法を知らない」
「作法を知らない」は、単にその知識がないだけや、形式上に問題があるだけの場合も多いのですが、「礼儀を知らない」の場合は、敬意や慎みの気持ちがなく、常識に欠ける事を非難する意が含まれてくるようです。
つまり、礼儀は、形式も大切ですが、そこに込められた「心」が重要で、対人関係での気配りや敬意、慎みの気持ちがあり、それに基づいた行動の規範であるといえます。
それが欠けていて、形式上は問題ないけれど、明らかに心がこもっていないとか、投げやりな態度であるとか、または、人を見下していると感じられると、人は不快になるのです。
大切なのは、立ち居振る舞いや言動にどのような「心」がこもっているかです。
接客業の方が、マニュアル(=作法)に沿って対応していても、不快になったことがありませんか?
その接客中の「心」に対して、感じるものがあり、不快になっているのです。
人というのは、他人の言動から「心」を感じることができるのです。
水元照子先生のお言葉
- 一日の締めくくりは感謝の心。早朝、日輪様に礼拝。
わが家の御先祖様にご挨拶なすは、人間の礼儀です。
- 「日々、どういう風に世暮らしすれば良いのでしょうか。」
天を仰ぎ地に伏す心。不浄を作らず、不浄を浄める。
次に力を作ること。力とは、何事にも行き届かせること。
心の向け方、我が身の向け方、言葉の出し方、一まとめに言えば、「礼儀にかけて」という、これが根です。
自分の言葉態度によく気を付けて人に愛されるようするは人間としての作法である。
それを値打ちなしにしておられる人は心の幅のせまいお人です。
幅を広く持つには海にちなむ自分を作るのです。
腰を低く深みを作ることによって海の姿に似かようものです。
海の水は自由自在に許されて動くでしょう。
人の運勢もあの姿になしてゆく心の幅を広く持つのです。
- 東は日輪、西は人。
柏手打って無事祈る心ありても、野心・邪心・強欲ましてや天に逆らう心ありて柏手打っても、香りが悪いから、受け付けられないのですよ。
- 朝夕の祈りも御挨拶も、我が心の神に受け付けられたものが天に上がるのです。
軽い、力の入らないご挨拶は、風の神が吹き散らして天には上がらない。
そのような顔向けでは幸せはいただけません。
熱のこもったご挨拶は火の神が受け付けます。
真の幸福は我が心の神が認めてこそ開くもの。
道として力を入れて申しましたよ。