【気配り・心配り】
気配り・心配りにおいて、「心に力を作る」とするならば、どんな力を作ったら良いのでしょうか?
気配り・心配りにおいて、「心に力を作る」とするならば、どんな力を作ったら良いのでしょうか?
水元流神道では、「人良かれ、我良かれ」という言葉があります。
これは、「人様に良くして、喜んでもらえることが、自分にとっても良いことだ」
という、利他の精神のことです。
自分も含めて、人が、こうしてもらえたらうれしい、ありがたいと思われるようなことをすることは、気配り・心配りだと言えます。
また、自分も人もされてイヤなことはしない、
これも、気配り・心配りと言えます。
さらに、「きちんと始末する」ことも、また気配り・心配りなのです。
たとえば、火の不始末や、自転車・車・歩行者の交通違反、ゴミやたばこの不始末などは、命や健康の危険に及ぶ場合があります。
公共でのマナー違反も、気配り・心配りがないのです。
さらには、家族、親しい友人関係、学校や職場の人間関係など、一日の多くの時間を共にする間柄で、気配り・心配りに欠けると、人間関係が、ひどく悪化します。
人間関係でお悩みの方は、まさにここで悩んでいらっしゃるのです。
「細かなところまで、気遣うのはいちいちやってられない」とか、「そんな大げさな」、という言う人ほど、気配り・心配りが欠如し、不始末により他人に迷惑をかけることが多いです。
気配り・心配りというのは、きちんと物事を行き届かせることになります。
それには、まず、どういう言動をしたらどうなるか、先を見通す力が必要です。
先を見通し、ちょっと面倒でもきちんと物事を行き届かせることが、気配り・心配りにおいて、「心に力を作る」ことになります。
気配り・心配りにおいて、「心に力を作る」ときにも、「精神力」が問われます。
水元照子先生のお言葉
- 世の中に生まれ出でたる自分をば、欲と悪とに染め、業を深くし損の繕いせずして日々を送り、苦難を受けて悲しむ人が多いこの世の中、人は皆、自分で自分の都合のよいようにする。
誠正しきことあるは善を増やすもの。まかぬ種子は生えぬ。
憂さ晴らしとして、焼け石に水のようなことをしてはみるもの、味気なし。
自分の心は晴れない。
- ありがたい味あるものは、情けです。
情けの中にこもっているものは、善です。
うわべばかりを飾って良さを出す人は、やがて危ない橋を渡る時が来る。
人生は、道楽の方へと向かいやすい。道楽とは、危険な方へと向かって行くこと。
それと反対に、窮屈がらずに物事をなしてゆかれるお方は幸せの方へと向かうもの。
自分が作りし道を歩むものなり。
物を大切にするは満たし心。
それと反対に、草刈り鎌に似たる心は我が身我が身へ引く心。
満たされない貧乏性。
- 思いやり程、尊い太い重みのある味はありません。
- 油断の多いこと。
心の油断ゆえに難儀を受ける時が来る。
油断は大敵となる。
ともすると、こころうきうき頼もしく食事の喜び、調子の喜び、もう一つある。
それは昔に比べて今、自分が世暮らしの頂上に上ったような気になって下を見下ろす心。
人の情は身にしみて離れない。
今からでも遅くはない。
情の深みは自分が人から情を受けたうめあわせとして、天に顔向けができる自分を作っていくなれば、未熟な自分であったことを見返す力がついてくる。
- 人間、煮え切る心を持たねばなりません。
煮え切るということは、物事に行き届かせる心の向け方です。
人間はただ、我よかれと着る心ばかり。
心の温かみを失ってはいけないと思います。
心の温かみは、心の良さを作ることです。
つとむる心の良さは、天照らすなり。
御照らしをいただける自分を作り上げ、その良さが光る自分となるのです。
- 目はどんな働きをするか。
目がはっきりしていて初めて、世の中の事事を心に教えます。
心は運を左右する。目ほど大切なものはない。
目はどこを向いていたら良いか。
目の使い方は【大切】という方へ持っていくのです。
見て良い方へ持っていく人の温かい目と、何を見てもけなす心、笑う心、憎む心の冷たい二通りがあります。
- 目が心に教えます。心に教える目。
美しく相手を見る人の性は、何時も我が心に尊い温かい温度を作っていかしていることになります。
温かい温度には、美しい芽が生えます。
それが運を運ぶ芽であり、生かすことの力となります。
そのつもりで明るく精進なされたら、自分が満足です。
心の満足は人様に当たりが優しい。
優しい力のある方には、引き付けられます。それが信用です。
落ち着いて信仰に励まれますことを望みます。