【懺悔、反省】
懺悔・反省において、「心に力を作る」とするならば、どんな力を作ったら良いのでしょうか?
懺悔をするとは、神の前で、自らの過ちや怠り、罪を告白し、悔い改めることです。
懺悔や反省が苦手な人は、悪い結果が起きたとき、自分以外の周りの相手・条件・環境・物などのせいにします。
自分以外の周りの相手・条件・環境・物などのせいにしている間は、その人の成長は難しいでしょう。
反対に、悪い結果の原因を、何でもかんでも、自分せいにしてしまい、「なんて自分はだめな人間なんだ」と、自己卑下が極端になり、「こんな自分は生きている価値がない」と、ついには生きることに希望を持てなくなってしまう人がいます。
悪い結果が起きたとき、「誰のせいで」とか、「何のせい」でと、原因を突き止めるのも大事ですが、「どうしたら今、この悪い状態から少しでもよくなるか」、また、「良い状態にするときに、どういう方法なら、自分は【快の感情】でできるか」を、考えることが大事です。
物事を行うときに、ワクワクと楽しい気持ちや、うれしい気持ちでやるのと、嫌々ながら、苦痛な気持ちでやるのとでは、まったく成果が違ってきます。
結果よりプロセスを大事にしている人にはなおさらです。
至らなかった自分に気づき、それを反省し、苦にせず、屈せず、ワクワクした気持ちで、改めていくこと。
また、それができたことを心から喜ぶことが、懺悔・反省において、「心に力を作る」とということになります。
水元照子先生のお言葉
- 大自然に生かされている自分。
衣食住、皆、天地の恩恵を受けて生かされている。
自分のはびこり角を出し、垢を着、その性の手柄は苦しみを受け、これが不運の旗揚げです。
さて、いかに罪咎を消滅するや。
われ知らず知らず作りし罪のはびこりは、縦にも横にも許されるはずはない。
だから水元は言う。
丸くなるは懺悔、懺悔。懺悔は山を崩し川に流し海におさめよ。
- 背中に罪を着ていては重いぞ。
川に流せ。海が出来ねば流せない。
海の姿が出来ねば、業の浄めはできない。
我が身を頭高くしていては海は出来ない。
我をうんと腰低く深くうがたねば罪は流せない。
- 人間として人たる道を踏み、行いを立て、心に力根作りてこそ値打ちとなる。
幸せになるには心の修行がいるのです。
- 心のぜいたくばかりで身の落ち着く方へと向かわぬ者は不運が待つ。
隠れた力を作るのだ。丁寧には言わぬ。厳しく教育する水元です。
早く精神が目覚めるようになられることです。
- 天地自然に腹の底からえぐる程の心の燃え方・立て方が、詫び・懺悔の姿だ。
思い上がりも程々にありてこそ足場もある。
- 自分の気に合わないようなことを言われて、心にむくれるようなお方は、誠にお気の毒な方と思います。
自分を助けようとするなら、手の脈相を変えること。
「はい。わかりました」と天に懺悔する心が手の脈相を変えることになるのです。
自分の信念が手相を変えることになります。力を入れて、水元は言いました。