【真剣・熱心・情熱】

 
undefined
真剣・熱心・情熱において、「心に力を作る」とするならば、どんな力を作ったら良いのでしょうか?

真剣・熱心・情熱というのは、無気力や無感動、怠惰などと反対の概念です。

自分の内側からわき起こってくるエネルギーがなければできないものです。

日々の生活の中で、気づけばダラダラと流されて怠惰だったり、歯止めがきかないでいたり、無気力だったり、無感動だったりしていませんか?

あるいは、冷めた気持ち・人をさげすむ気持ちでいませんか?

自分が能動的にやる気を持って活動していますか?

「ハッ」と気づいて、そこから改めることも、また、真剣・熱心・情熱ということになります。

他人から、自分のやりたいことや自由を排除され、やりたくないことを強制的にやらされる・・・

これが、いかに人の心をむしばみ、人生を台無しにするか、極端に言えば、死に到るほど、追い詰める事にもなるのです。

真剣・熱心・情熱というのは、決して苦しいことではありません。

自分が何をするにも、自分の意志で生き生きと考え、楽しく行動することです。

それが主体的にする、あるいは能動的にするということなのです。

苦しいことを、「やらされている」と感じながらすることではありません。

この真剣・熱心・情熱というのは、燃え盛る火に形容されます。

神霊的には、火の神様とちなむことです。

火の神様にちなめば、目的を成就達成します。

火の神様は、成就達成を司っておられますが、不浄を焼き尽くすということも司っておられます。

諸々が不浄であることは、火の神様のお怒りを受けます。

清浄 を心掛け、かつ、内側からわき起こる真剣・熱心・情熱で物事をこなしていくことが、「心に力を作る」ということになります。

水元照子先生のお言葉

  • 熱のこもったご挨拶は火の神が受け付けます。

  • 生まれ変わった気持ちで、我が年と名前をお通しし、天に地に伏して「救い給え、助け給え」と。

    その念力が柏手(かしわで)にこもり、指先より炎と燃えて天に通じる程に念ずるならば、御神前に進みなさい。

  • 甘えた顔出すようでは時間つぶし。真剣炎をもって進まれること。

    火熱の強いものには寄り付けない。

  • 念の度合い(粘土)を天に届けるのです。

    粘土を火熱で焼けば焼くほど固くなるのと同じく、真剣・熱心になればなるほどその念の度合いは固くなるのです。

  • 人間は誇り高きもの。我より良いものはないとして世暮らしはするものの、すべてに行き届かせる力が弱く、心の不行き届きばかりです。

    信仰高く立てられて、その重み値打ちで自分が仕上がってゆくものです。

    人間の業というものは計ることができないのです。

    ですから計り知れない信仰にて自分を仕立ててこそ、不行き届きの諸々は自然消滅するものです。

  • 力の作り方によって、心の根が手の脈相に表れてくるものです。

    自分を可愛がらないものはない。

    自分が可愛ければ、お茶には熱い湯、信仰には御神力を仰ぐ心こそ、粘土を火熱で焼き仕上げた茶器と同じく、我が心にも念の度合いの熱で焼き、初めて天より熱い御力がいただけるのです。

    お茶は熱い湯の力で香り高きものが出ます。

    と同じく、信仰の力を身に受けて、許される自分を仕立てるのです。